私の日記帳

日頃の何気ない出来事などを気ままに書き綴っています。

無駄という言葉に秘められた哲学

せっかくのお盆休み。

 

何だか無駄に過ごしているなー。

 

と、思ったりするものです。

 

無駄に過ごしているなー。

 

と、思っていると。

 

無駄という言葉が気になりました。

 

よく使う「無駄」という言葉。

 

私たちはこの言葉をどのように解釈しているのでしょう。

 

「無駄使いする」または「時間の無駄」など。

 

というような使い方をしますね。

 

ヤフーの辞書で検索したら、益の無いことと出てきました。

 

いいかえるとメリットの無いこととも言えそうです。

 

しかし、この無駄という言葉。

 

よく見てみると、無駄が無いと書いてある。

 

そう思いませんか?

 

文法上なんか変な感じです。

 

本来「駄」の一文字でいいのではないでしょうか。

 

それに「無」という字を入れると、無駄が無いという意味になってしまうと思うのは私だけでしょうか。

 

この無駄という言葉。

 

もしかして深い意味があるのかもしれません。

 

それはどんな意味なのだろう?

 

私なりの解釈は以下のようなものです。

 

一見無益に思えること。

 

例えば何にもしないで、ぼんやりしている。

 

こんなとき、時間を無駄遣いしている。

 

と、よく言われますね。

 

しかし、こんな時間の過ごし方にも実は意味がある。

 

たしかに、何も生産していないかもしれません。

 

しかし、ぼんやりしている時間に私たちの身体や精神は休息できるのです。

 

ぼんやりした後には気分にもゆとりができることもあるのです。

 

そうなんです。

 

無駄という言葉は無駄ではないという意味なのです。

 

無駄という言葉が私たちに教えていること。

 

それは、人生に無駄なことは何一つない。

 

ということなのではないでしょうか。

 

というのが私の思っていることです。

 

普段何気なく使っている言葉。

 

先人たちが残した偉大な哲学が盛り込まれているのかもしれない。

 

と、思ったお盆休みです。